昭和49年09月17日 朝の御理解
御神訓 一、
「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり。」
御神徳の中に生かされてあるという事実。それを説明を受けますと、大体一通りは誰でも分かると思うんですけれども。分かっただけではなしに、神徳の中に生かされてある喜びが頂けなかったら、お道の信心をする値打ちもないと思うくらいですね。言うなら「天地書附」が、私どもの信心の目当てでありますように、その目当てを外して信心をしておるとしたら、お道の信心の値打ちはないです。
「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え。おかげは和賀心にあり。」と仰せられる。どんな場合でも、和賀心を追求していくという、その姿勢を持っておらなかったら、金光様の信心の値打ちはない。今日のこの御神訓を頂いてもそうです。「わが身は神徳の中に生かされてあり」と言う事が、それは徹頭徹尾説明すれば、説明できることでしょうから、あらゆる角度から説明をしておられますよね皆んなが。
けれども説明を受けて分かっただけでは、また何にもならんのです。「わが身は神徳の中に生かされてある」という喜び、それを頂かなければいけない。そこに「勿体ないなぁ」とか「有り難いなぁ」とか、又は「相済まんことじゃな」というものは、そこからしか生まれて参りません。わが身は神徳の中に生かされてあると言う事が、言うならば、有り難い勿体ない又は畏れ多いと。相済まないと言う様な実感を持って、日々の信心生活ができるようにならなければ、信心を頂く値打ちはない。
問題は分かると言う事よりも、勿論分からなきゃなりません。けれども分かる所から次には、有り難いという勿体ないという、そういう信心に入っておらなければなりません。私は今朝からお夢を頂いたんですけれども。二つお夢を頂いたんです。二つの夢がお話にならない位に、おぼろげになったんですけれども。ただ実感として残っておるのは、ははぁこれが信心の薄かった、又は信心のなかった時代のことだったなと、結論としてそういうものだけが残ったんです。
例えば今日申します、信心はしておってもここの所、今日申します所が目当てではなく。いわゆる「天地書附」が目当てであると同時に、わが身は神徳の中に生かされて生きておるんだと言った様な事を実感として、これに感じれれるような信心ではなかった。只自分の都合の良いおかげを頂く。御利益本位の信心であった。いやどこまでも自分本位私本位の信心であった。その自分の事信心がなかったら、もっとひどいのでしょうけども、まぁ信心は生まれながらにして、私共は頂いておるのでございますけれども。
只自分本位の信心である時には、有難いとか勿体ないとかそりゃおかげ頂きゃ「有り難い」と言ってますけれどもね、それは有難いのじゃなかった。それは嬉しかったと言う様なもんです。子供がおやつをもらった時にニコッとするのと同じ事です。お頂戴さえすれば貰えると言った様なおかげではなくてね、いわゆる自分本位であります。考えておる事の浅はかな事、次には浅ましい事。もう自分ながらゲッソリする程しの人間であったと言う事です。実に浅はかです。そして実に浅ましいです。
もしあのままで一生を終わってたとしたら、どう言う事になるだろうかと思うて、何か知らん、今日は身の引き締まるような思いがしまして、自分の事のお詫びをさせて頂いたんですけれども。そしたら御心眼に水道の蛇口がね、いくら閉めても水がバァッと落ちるでしょう。どんどん出るのがあるでしょう、あの所を頂いたんです。もうどの位お粗末ご無礼な一生で終わったか分からないと言う事です。
金光様のご信心を頂いておってもね、ただおかげが頂きたいというだけ、自分だけの本位の信心と言う事は、おかげは頂いても頂いても、それは実に浅はかです。そして浅ましいです。私は只浅はかな事と、浅ましい事と言う事を、今日はそのお夢の中から感じ取らせて頂いたんです。ですからそういう信心ではです。わが身は神徳の中に生かされてあっても、生かされてある所の、生き生きとした喜びにも触れられませんし、その神徳をまた自分の身に受けていくと言う事等は、尚更できません。
お道の信心の目的はどこまでもです「天地書附」が焦点です。所謂「和賀心」が焦点です。どのような場合であっても、いかにしてそれを和賀心で受けるかと。痛い思いをしましてもです、そういう思いでおりますと、叩かれて「すいません」という気が起こるんです。神様はね何もない事に叩きはなさいませんのですから。例えば鴨居で頭を打った。それは迂闊にしておるからです。「ああ、痛いよ」と言うてから、鴨居の方ば叩くようなことする。「どうしてじゃろうか」と思う。
もうこれではダメです。「すいません」これが一番でなからにゃいかん。昨日は秋季総会でしたね。初めの間申し込みは、八十名ぐらいだったそうですけども。実際昨日はちょうど二百名からの人達で、日田の何とか公園でおかげを頂いたわけですけども。私はあそこへ行って行きかかりです。こう綺麗な道があるのに福岡の東さんが、先に発ってその後ば付いて行きよったら、こんな坂ん所に出たんです。しかも何かこうスベスベ滑るような感じのとこですから、
東さんが後ろ向いてからこう手を出す。それでここにしがみついてから下りよった途端に、東さんが転んだもんですから私まで一緒に転んだ。日田には松のこんな切り株があるから、もう転びながらその切り株のとに乗っていったら大変と思てから、やっぱ何か工夫したんでしょうね。おかげで転びながら、それには当たりませんでしたけれども、新しい洋服が泥だらけになると言った様な事でした。
はぁ今日は用心せないかんぞと、改めて思いました。言うならば神様へ縋らずに、東さんに縋っとった。ああいう大きなこんな大きな人ですから、この人に縋ってさえおけば大丈夫というものがあったんじゃないでしょうかね。東さんも私もスッテンコロリンで転んだと。そして転ぶ瞬間にですね、「金光様!」と言いよるもん。これはもうこれどん当たったならば大怪我すると言う様な思いの方が強かった事に、自分ながらこらどうした迂闊な事だっただろうかと思いましたけれどね。
近年にない盛大な総会でございましたが。ほんとにあそこで最近、あのように青い澄みきった青空を、久しぶりに見た感じがいたしました。青い青いそして所々にちぎれ雲あって、それから暑くもなかりゃ寒くもないと言う様な状態なうちに、時々松風がザァーッとテントの中に入ってくる時の有り難さというものは、本当にしみじみ有り難いものを感じたんですけれども。
そこまでだったら信心のない者でも、私はそれこそそこで詩ができたり俳句ができたりする位に、素晴らしい気持ちに浸る事が出来ると思うですね。どこまで青いか分からないような青空一つ見ても素晴らしいと思うでしょうし。暑くもない寒くもない野原に、寝転んでおるのですからそれで気分が悪いと言う人はありますまいし。それに爽やかな秋風が入ってくる。本当に爽やかである。すがすがしい。
「ああ今日は良かった」と命の洗濯をしたと言った様な気持ちなら、信心がなかっても誰でも思うことだろうと思うんです。だから金光様のご信心は、それではいけないのです。それとは反対にです。転んでも滑っても又は、暑くても寒くてもその中から、勿体ない有り難いというのが分からせて頂くと言う事が、神徳の中に生かされておる事が分かった者、又は神徳を肌に感じる人の生き方なのです。
自分の都合のよか時だけ「有り難い」と言うのは、嬉しいのです。だからそれとは反対の場合であっても「有り難いなぁ」とか「勿体ないなぁ」とか、又は「相済みません」というのが、先に出る信心であってこそ、初めてわが身は神徳の中に生かされておる。神徳の中には、暑いこともありゃ寒い事もあると言う事なんですよ。それが自分本位の時にはです、自分の都合のよか事だけが有り難いと言う事になってくる。だからそれは本当の有り難いじゃないと言う事が分かるでしょう。
そういう生き方を、例えば信心をしておってもです。私が何十年間の信心の場合は、ただ自分だけが、自分本位の信心であったということ。だからその自分の事を改めて夢で頂いて、まあ何と浅はかな考え方であろうか、まあ何という浅ましい心であろうかと。その浅はかな心が、限りなく心が深められていっておるという今日。また浅ましいと思うておったその心がです。
いつの間にか自分の心が、神の方へ向かうわが心が神に向かっていって、自分ながら自分で自分の心がおがみたい様な心が育っておると言う事の有り難さ。そういう有り難さを以って、「わが身は神徳の中に生かされてある」という喜びを感じさせてもらえれるおかげ。そこから御神徳を、今度は身に受けて行くところの信心が頂けれる。信心をしておるからというだけではいけません。その信心がどこまで和賀心を目指し、和らぎ賀ぶ心を目指しておるのか。
「わが身は神徳の中に生かされてある」と言う事をです。どれほど有り難い勿体ない、または、相済みませんで頂けておるかと言う事をです、ひとつ見直してみなければいけません。そこから自分の信心の焦点の狂いというものを感ずるでしょう。焦点が間違うたら例え信心を頂いて、自分本位であったら結局自分本位だけの事です。所が神様を中心に申し上げた、神様本位と言う様な生き方にならせて頂きますとです。愈々神様本位にならせて頂く所からです。
自分の心の浅はかな事浅ましい事が、分からせても気付かしても貰うし、改まらなければ神様と一体にもなれませんし。神様の心を心としての生き方が出来る様になって、始めて神徳の中に生かされてある。神徳の中にあるなぁというおかげが頂けます。同時にお粗末ご無礼のない生涯として、神様の祝福を受けられるほどしのわが身に神徳を受けて、あの世にも持って行けこの世にも残しておけると言う様なものが頂けて来る様になるのです。どこまで私の信心が、神様本位の信心をさせて頂いておるかと言う事です。
以前に頂きました御理解の中にね、「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」と。これは三代金光様が、私に下さった御教えです。ある難儀な問題をお届け申しました時に、まだ「金光教神愛会」と言っておった時分です。そしたら神様任せになっておられればね、神様が大坪さん、あなた任せになると仰せられますよと言う意味なんです。はぁその時分な、神様のお知らせを頂いて、神様任せでいきよりゃ色んな、 (途中から・B面始)
致しましたけれども、どこまでも神様の心を中心にしていく生き方をさせて頂いておりましたらいつの間にか、神様が私任せになっておって下さる事に気付かせて頂いておる今日なのです。だから自分の思う通りどもなると言う様なおかげは、大したおかげじゃないです。思うようにならないことは、むしろ神様の願いが、成就しておる時と思うて、一心の信心をしていきよります。神様を中心に申し上げた、教えを中心にした生き方をさせて頂いておりますとです。
氏子が神様本位ならば、神様が氏子本位になって下さる事です。どうでしょう。よく商売人が使います言葉の中に「私の方も、お客さん本位でございます」とこう言う。ほんとにそのお店お客様本位いったら、絶対繁盛しないはずはありません。ところが口には、お客さん本位と言うておいて、いかにお客さんば騙くらかせたという手に使っておる。私神様お客様本位でございますと言いながら、実は自分方がいかにして儲けようかという口実です。宣伝文句です。
これでは繁盛するはずがありません。そういう意味においてです、私共は神様本位にならせて頂けれる信心から、愈々「わが身は神徳の中に生かされてある」実感というのは、愈々募ってくるばかりであります。自分で自分の心が拝みたい程しの心が生まれてくるです。自分の人間的な浅はかな考えがです。どこまであるか分からない、深い深い自分の思いに気付かせて頂いて、愈々有り難くなる。
先ず自分の浅はかな、又は浅ましいそこに気付かせて頂いて自分本位の信心から、神様本位の信心に愈々ならせて頂かなければなりません。今合楽で言われておる「合楽示現活動」と言う様な信心は、愈々神様を本位に申し上げた信心ですから。これならばおかげを受けます。これならば神様の喜びを頂く事ができます。そういう意味でです、合楽示現活動というのは、誰にでも分かる、神様本位の生き方を教えておるようなものですよね。